【 青森県創設の真実 】
藩内体制がしっかりしていた八戸、盛岡、秋田と違い、弘前藩は藩主を筆頭に家臣其々が保身に奔り統一されず物色外交を重ねていくので新政府側からも不信を買っていた事が伝わっている
その為弘前津軽藩は一時は錦旗の返還まで要求されている
その後、新政府側から鶴岡、秋田戦争、箱館戦争への出兵、兵糧等を立て続けに命令されて年間の藩の予算を大幅に上回る出費を余儀なくされて、打つ手が無くなった挙句に藩札を出したが一瞬で紙切れに変わっている
窮地に遭った弘前を偶然救ったのが斗南の広澤安任と八戸の太田喜満多(広城)が画策した南下するロシアに対抗する為の現在の青森県構想
新政府からの強い圧力で意思統一されない弘前藩を押し付けられ渋々引き受けた挙句、新政府が駐留する弘前へ当初は県庁を置く事に だが、やはり弘前の能力、資質ではその任は果たせないと判断されて僅か19日で箱館との交易港の現在の青森へ県庁が移された
莫大な借金を背負っていた弘前津軽藩はこの後、斗南藩広澤安任、八戸藩太田広城が国から資金を借入て始めた洋式牧場に習い青森県から資金を借りて同じ洋式牧場を始め次に洋式りんご栽培を奨励してようやく糧を得ていく
弘前藩の平均歳入は約45万両に対して 戊辰戦争終結後の支出は箱館戦争の戦費を含まず49万5000両 箱館戦争の支出はこれ以上の支出を重ねていた
弘前藩は廃藩か秋田藩直轄領地になるしかない状態であった しかし秋田藩は藩内がごちゃごちゃで且つ財政破綻状態の弘前藩を直轄地にするのはヤケボックリを懐に入れるのと同じだと頑なに拒否をした
行き場が無くなった弘前藩は新政府より青森県への誘いがあった時には溺れるもの藁をも掴むで一も二もなく懇願して参加した
野辺地戦争でも八戸南部藩にコテンパンにやられて敗走している弱過ぎ弘前津軽藩だった。
今も昔も津軽は日本、八戸へ寄生する寄生虫
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