実朝暗殺
年が明けた建保7年(1219年)1月27日、雪が2尺(約60cm)ほど降りしきるなか、実朝が右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣する。夜になって参拝を終えて石段を下り、公卿が立ち並ぶ前に差し掛かったところを、頭布を被った公暁(鶴岡八幡宮別当)が襲いかかり、下襲の衣を踏みつけて実朝が転倒した所を「親の敵はかく討つぞ」と叫んで頭を斬りつけ、その首を打ち落とした。 同時に3、4人の仲間の法師が供の者たちを追い散らし、源仲章を北条義時と間違えて切り伏せた。 そして『吾妻鏡』によると、八幡宮の石段の上から「我こそは八幡宮別当阿闍梨公暁なるぞ。 父の敵を討ち取ったり」と大音声を上げ、逃げ惑う公卿らと境内に突入してきた武士達を尻目に姿を消した。
一方、『愚管抄』によると公暁はそのような声は上げておらず、鳥居の外に控えていた武士たちは公卿らが逃げてくるまで襲撃にまったく気づかなかったとある。 儀式の際、数千の兵はすべて鳥居の外に控えており、その場に武装した者はいなかった。
公暁は実朝の首を持って雪の下北谷の後見者・備中阿闍梨宅に戻り、食事の間も実朝の首を離さず、乳母夫の三浦義村に使いを出し、「今こそ我は東国の大将軍である。その準備をせよ」と言い送った。義村は「迎えの使者を送ります」と偽り、北条義時にこの事を告げた。義時は躊躇なく公暁を誅殺すべく評議をし、義村は勇猛な公暁を討つべく長尾定景を差し向けた。
公暁は義村の迎えが来ないので、1人雪の中を鶴岡背面の山を登り、義村宅に向かう途中で討手に遭遇する。討ち手を斬り散らしつつ義村宅の板塀までたどり着き、塀を乗り越えようとした所を討ち取られた。享年20。
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