1941年(昭和16年)に徴兵のため大日本帝国陸軍の野戦重砲兵第6連隊補充隊(通称号は西部軍管区の隷下部隊である西部第73部隊[注釈 4])へ入営。学歴を生かし幹部候補生を志願し、その内の乙幹に合格し暗号を担当する下士官となる。 補充隊での教育後は支那事変に出征。従軍中は福州に駐屯して米軍の上陸に備えていたが、米軍が上陸することはなかったために、結果として戦闘のない地域に居ることとなり、職種も戦闘を担当するものではなかったため、一度も敵に向かって銃を撃つことはなかったという[2]。部隊では主に暗号の作成・解読を担当するとともに、宣撫工作にも携わり、紙芝居を作って地元民向けに演じたこともあった。それでも上海への移動中に中国軍の奇襲を受け、銃弾が耳の近くをかすめたこともあった。上海ではマラリアにかかり、高熱に苦しんだ。最終階級は陸軍軍曹で、終戦翌年の1946年(昭和21年)に復員。なお、太平洋戦争では弟が戦死している[注釈 5]。
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